債務整理コラム
ものさしの価値
多重債務に陥って債務整理を打診される方の半数以上が家計簿をきちんとつけていません。本来であれば家計簿を詳細に記してさえいれば、債務超過に陥った当初のうちにすぐに問題点に到達でき、それによって債務整理に着手できるため、債務者としてもさほどの苦労をすることなくスムーズに返済することができます。
これは当たり前のように見えますが、実はとても難しいこと。学生時代を思い返してみてください。学校の宿題や予習復習はけして難しいものではありませんが、これをきちんと続けることができたでしょうか。当たり前のことを当たり前に続けてゆくことの難しさがここにあります。世間一般の人は自分を定量化(数値化)することを潜在的に好んでいません。それが借金であるのならばなおさらです。お客様が毎週テストを受けていると仮定してみましょう。60点が合格ラインで60点を超えないとお小遣いがもらえません。もし最初の時点で50点と言ったぎりぎりの点数であったものが、来週は52点、再来週は49点と言ったところを上下しているのであれば、お小遣いが欲しいときにはまだ「頑張れば何とかなりそう」と言った気持ちになれるはずです。しかし、初めが50点であったものが時の経つにつれて40点になり、30点になりと一直線に下降していった場合、ある瞬間に「もう、お小遣いなんてどうでもいいや」と投げてしまうことになります。
これは点数の下落幅が自分のキャパシティを超えてしまったためです。債務整理と言うものは基本的にこの点数がマイナスに陥ってしまった段階。お小遣いどころの話ではありません。このため、ほとんどの人が借金取りから電話をかけられ、さんざんごねられ脅されてしまうことで動き出すことになるのです。以前に「同じ1万円であっても増えるよりもなくなることの方が心理的な衝撃が大きい」と言ったことをお話しましたが、同様にその損失を許容できる一般的な心理的ラインと言うものは決まっています。これはその人の持っている総資産のうちの2パーセント。端的に申し上げれば仮に100万円持っている人であれば2万円までならば、人にごちそうしても許せる範疇だと言えると言うこと。もちろん中には「2万円なんてとんでもない」とおっしゃられる方もいるかもしれませんが、それでも歯を食い縛れば何とか許してあげられる範囲だと言えるでしょう。逆にその範囲を超えて毎月借金が嵩み、日を追うごとに2万円だった借金が5万円になり、10万円になりしてくると、あるとき突然「もう知らない!」と何もかもうっちゃってしまいたくなるのです。 ところで世間には様々な文房具がありますね。「ものさし」しかり「分度器」しかりと言ったものです。「ものさし」は物の長さを測るためのもの。「分度器」ならば物の角度を測るためのものです。同様に生活と借金とのバランスを図るものが家計簿なのです。家計簿をしっかりとつけているのであれば、先々をしっかりと見通して「このままでは危ない」と警戒ラインに突入した時点ですぐに手を打つことができるため、場合によっては債務整理を待たずに自力で借金の返済をすることも可能でしょう。逆に家計簿をつけていないとずるずると目先の状況に引きずられてしまいます。
厳しいようですがはっきりと申し上げます。お金は人生の全てではありません。しかしお金は「価値」であり、つまりはそれを持っている人の価値を示す一端を担っています。このため、家計簿をきちんとつけず、借金をしている事実から顔を背けてしまうことは、ある一点を境に自分の価値を「ゼロ円以下」だと放棄してしまうことと同義なのです。債務整理は債務者の価値を「マイナス」から「ゼロ」にまでは戻せます。しかしそこから先に再びプラスにできるかどうかはご本人の努力次第なのです。
志と斉家
トイレを磨いても借金は減りません。当然こんなことを言うとびっくりされるかもしれませんが、お金の話です。
数年くらい前からテレビや雑誌でパワースポットと言うものが流行しています。またそれに連なってトイレ掃除をするとお金が入ると言うことをたびたび耳にします。確かに昔から心理学では排泄の象徴がお金であったり、金運を上げるには厠(かわや)掃除をするなどと言うお話は有名です。そして、一般的に言われている「借金が返せない人にありがちなこと」として部屋が汚いと言うのもよく耳にします。確かに借金のある方の部屋が散らかっていることが多いのも事実です。しかし、繰り返しますがトイレ掃除をしてもそれは負債の減額にはつながりません。では、それはなぜでしょうか。
古代の中国では「科挙」と呼ばれる試験が行われていました。細かいことは割愛しますが、この試験勉強と言うものが想像を絶するもので、試験に合格したものの頭の良さは「日月星辰(森羅万象)をも動かす」とも言われていたほどのものなのです。さて、この試験の中に含まれる「礼記」と呼ばれる書物の中には「修身斉家治国平天下」と言うくだりがあります。平易に訳せば「社会に影響を及ぼすほどの人間になるには、まず自分の行いをきちんとし、次に家庭をととのえ、次に国家(地域社会)を治め、そして天下に向かうべきである」と言った程度の意味となります。要は正しい方向へ向かうための順番を知ると言うことですね。さて、勘の良い方ならばお気づきかもしれませんが、トイレ掃除をしても金運が上がらない理由がここにあります。当たり前ですが、借金とトイレには何の因果もありません。ただし、先の言葉にそれをあてはめると掃除は「斉家(家庭をととのえる)」と言う位置づけに置かれます。しかしその手前である「修身(自分の行いをきちんとすること)」が抜けていますね。土台のない家の上に何を積み上げてもそれは砂上の楼閣です。ましてや「借金が減る、借金が減る」と念じながらトイレだけ掃除をしても結果は言わずもがな。トイレ掃除をしても借金が減らない理由がここにあります。まずはトイレ以前に自分の心を掃除することが先決なのです。
では、自分の心を掃除するとは何か。進むべき方向性をきちんと立てて、いらないものを排除してゆくと言うことです。「修身」と言う言葉で喩え話をするのであれば、明治維新の立役者の一人である勝海舟は、当時大変高価であったオランダ語の辞書を医者から借りて、まる一年間、それを写本して独学で知識と言葉を学びました。朝から晩まで辞書と向き合い、勉強を終えた冬の夜でも布団もないために机に突っ伏したまま眠る生活だったそうです。この命がけの努力が現在の日本の礎としてあるわけです。同様の話は枚挙に暇がありません。そして、このような恩恵の上に現在の日本、ひいては私たちの繁栄があるわけです。仮にこれをお金に換算すれば想像を絶する金額となるはずです。
このように身を修めた人々と、単に「お金が天から降ってくる」とトイレ掃除をしている人々との間には、志と言う点において雲泥の差があるのです。志がきちんとしていれば、次の段階として家もきちんとととのいます。ただし、私は掃除そのものの価値を否定するわけではありません。自分と環境と言うものは相互に影響を与え合うからです。ごく一般の人が「お金持ちになりたい」と志を立ててお金持ちの人々と触れ合えば、最初は居心地が悪くとも次第にお金持ちの考え方が身に馴染んできます。その結果、部屋のがらくたを売払い、借金をなるべく減らし、シンプルな生活へと身を置くことになるでしょう。その過程において自然と部屋は綺麗になってくるはずなのです。逆に例えば繁華街のようなあまり品の良くない場所に入り浸っていたら、やはり次第にそのような人間へと傾いてゆきます。このように自分の志一つで赴くべき場所は変わり、またその場所から影響を受けると言う相互作用が発生してくるのです。
ただし、私は今の時代において借金を持っている方がある程度部屋が散らかっているのも仕方がないとも思っています。なぜなら、現代社会はそれを推奨する傾向があるためです。例えば巷には「自然体で生きる」や「個性を大切に」と言う言葉が溢れかえっています。しかし「自然体」や「個性」って一体なんでしょう。この抽象的で曖昧な言葉は人間を甘やかし、堕落させます。絵画でも音楽でも個性などと言うものは圧倒的な量の基礎をこなし、その分野を極めに極めた頂点の人のみを評価するものなのです。このように考えてみると、借金を減らしたり、金運を上げるためにはまず「志」を立て、次に「家をととのえる」と言う段取りが必要となってくるのです。