債務整理コラム
仕事の壁 お金の壁 2
次の日の朝、目が覚めてAさんは思ったそうです。
「会社に行かないと」
そして、ぼんやりした頭で少し考えてから、ふとその考えが間違っていることに気づいたそうです。昨日までの社長はもう社長ではありません。昨日までの部長も、もう部長ではありません。これまで仲良くしてきた同僚すらもういないのです。
そんなわびしさに浸りつつ、ふと彼がテーブルを見ると昨日貰ったままの茶封筒があります。茶封筒の中身は昨日確認してしっかりと三ヶ月分の給与が入っていることは確認しています。それを見ているうちにAさんは何をすることもなく、気が抜けたように一日を終えてしまったのです。
次の日、Aさんはますますもって動けなくなってしまいました。Aさんいわく「心にモロモロとしたカビが生えたよう」な感じだったそうです。繰り返し思い出すのは懸命に働いていた入社時の自分と、会社の閉鎖を告げられて以降、部署内に急激に立ち込めてきたあの独特の澱んだ気配。そして誰もいなくなってがらんどうになった会社の最後の姿。
働くとは何なのだろう。お金を稼ぐとは何なのだろう。Aさんは同じ質問を脳内でぐるぐると反芻させ続けました。もちろん答えなど出てきません。そうして月日だけが経っていったのです。
数週間が経過した頃、Aさんの自宅に一本の電話がかかってきました。
「○○ファイナンスですが、Aさんですね」と受話器から男性の声が聞こえてきます。
「あ、はい」
「お支払いが遅れているようですが」
そう言われてはじめてAさんは自分が借金を滞納し始めていることに気づきました。
「わかりました。すみません。忘れていただけなのですぐ振込します」
「頼みますよ」
そう言われて一度電話が切れました。
Aさんはそこでようやく気づきました。借金の返済どころか生活する気力すらままならなくなっている自分と言うものに。
久しぶりに人と会話をしたことも動機の一部となったのでしょう。このままでは危険だ、と言う思いが胸の内を席巻し、Aさんはまずはじめにかつての会社の同僚たちに電話をしてみました。少しばかりは出遅れたものの、彼らだってほぼ同じ時点で会社を辞めたのです。ならば彼らも彼らなりに現状に対して良いアイデアを持っているのではとAさんは考えたのでした。
「あ、もしもし久しぶり」とAさん。
「会社畳んでちょっと経ったけど仕事、どうしたのかなと思って」
すると、電話口に出たかつての同僚は不機嫌そうな感じで
「もう別の会社移ったわ。家電営業で前の顧客引っ張れることをネタにできたからな」
と返事をしてきたのです。
「で、お前は?」と同僚に問われ、Aさんは思わず言葉を濁してしまいました。まだ何もしていないなどとは口が裂けても言えなかったのです。
その後、Aさんは次の同僚、さらに次の同僚と電話をしましたが、誰もが同じような返事をしてきました。それ以上にAさんが身につまされたのは電話をしたことそのものでした。かつてはよくお酒を飲みにいった仲間であったはずのかつての同僚が、皆こぞってAさんの名を聞くや不機嫌な態度に変わったのです。さらにその口調からはどこともなしに「あなたはもう他人なのだから連絡しないでほしい」と言った意味合いが感じられたのでした。 社会の常識からすればそれは当たり前のことでしょう。もう新しい会社での生活が始まっているのですから、解散した会社のかつての同僚となど顔も合わせたくないと言う気持ちもAさんとしてもわかります。しかし、情に厚いAさんとしてはそれはとてもショックだったようなのです。
さらにかつての同僚と無職の自分、なぜこんなに差が開いたのかとAさんはしばらく煩悶しました。そうしてようやく突き当たったものが、あの腐ったような気配の中で同僚の誰かがかけていた携帯電話だったのです。同僚たちはもうあの時点で次の転職先を探しており、だからこそ、見切りをつけた結果、部署にあのような腐りきった雰囲気が漂っていたのだとAさんは気づきました。
愚かだったのは自分だったのか、とAさんは悩みました。一生懸命仕事をすると言うことが尊いと思い、だからこそ残務整理まで引き受けたが、それは間違いだったのか。お金のことを何よりも優先して考えるべきだったのだろうか。
しかしお金と仕事を天秤にかけて悩むほどの時間はありません。今日明日は生きていけるお金はあるものの、借金の返済を考えると相応のお給料のあるところで働かねばならないのです。結局、スタートが出遅れたものとAさんは割り切り、改めて職探しに費やす日々が始まりました。
毎日履歴書を書いてはポストに投函する日々。それでも前の会社ほどの給与で雇ってくれるところはありません。しかしそれを下回ると今度は借金の返済ができなくなってしまいます。日が経つにつれてAさんの心には焦りが芽生え始めました。
それから一ヶ月後、正社員としてAさんの就職先はまだ決まりませんでした。時間がなくなってきたことも手伝い、結局、平日は大手の銀行の下請けとして帳票を作成する契約社員。土曜日にコンビニのアルバイトを入れることでようやく暫定的な借金返済のめどを立てたのです。また、Aさん自身の心構えとして空いた日曜日は休みではなく、正社員への職探しをすると言う考えも含めて、彼の新しい生活はスタートしました。
けれどAさんの平日の仕事はとても辛いものだったようです。とくに自分よりも年下の正社員たちが、自分のことを見下した態度で平然と指示を出してくることはAさんにとってかなりの心労となりました。アルバイトなどはそれに輪をかけたようなもの。まともな一己の個人としては到底扱ってもらえません。がらの悪い子どもに絡まれることもしょっちゅうです。Aさんとしては自分の人生を真っ向から否定されたような気持ちに陥ってしまい、ようやくの日曜日ともなれば、もう動くこともできずにぐったりと寝込んでしまうだけでした。
これから先、給与が増える見込みはない。契約社員を続けていれば、数ヶ月の契約更新でいつ首切りをされるかも分からない。それなのに借金だけは全然減らない。しかし安定した給与で生活していけるだけの正社員を目指すほどのやる気はもう残っていない。
暗澹たる気持ちで日々を送っていたAさんのもとに郷里の母親から電話がかかってきたのは派遣社員になって半年程経った頃のことでした。
「元気にやってるのかい」
明るい声で近況を話している母親の声を聞いているうちに、Aさんの胸に耐え難い怒りが沸き起こってきたのでした。
なんだ! 自分は借金のせいでこんなに苦しい思いをしているのに、いったい誰のせいでこんな目に遭ったと思っているんだ。 そうして気づいたときにはAさんは母親に向かって怒鳴り散らしていたのです。
母親は最初は驚きのあまり黙りこくっていましたが、やがてこう述べました。
「お前ね、もし大変なんだったらいつでもこっちに戻ってきなさいよ。あんた一人くらい何とかしてあげられるんだからね」
涙混じりのその言葉に今度はAさんが息を呑む番でした。数百万の借金を負って細々と事業を継続させ、私生活では爪に火を点すような倹約をしている両親なのですから、自分が戻ったところで何とかできるはずなどないのです。
Aさんは母親に一言お詫びをして電話を切りました。それからさめざめと泣いたそうです。その途次にあたり、Aさんはようやく思い出したのです。元々自分が他の誰よりもまじめに働こうと思ったのは、同僚のためでも、自分のためでも、会社のためでもない。だれでもない、この両親のためなのだと言うことに。
その夜からAさんは枕を割るほどに考えました。給与をあてにしてどこかの社員になるのはもう難しい。仕事を増やしても同じことの繰り返し。ならば何をすれば良いのか。
考えて考えて考え続け、そうしてようやく出た結論が「借金を見つめる」と言うことでした。Aさんはそれまで借金とは何か、お金を増やすとは何かと言うことを正面から見つめたことはありませんでした。借金などは放っておけば利子が付く。返済できなくなれば即破産。その程度にしか知識がなかったのです。しかし「借金を見つめる」と言うことを念頭に、空いた時間に図書館に赴き、本屋でお金についての本を立ち読みをし、様々な知識を得た後、ある瞬間、ふと「債務整理」と言う単語を知ることができたのです。
こういう瞬間は不思議なものです。何十回何百回と図書館や本屋に出かけ、つい目の前にその単語がちらついていても、まったく気づくことができない。しかし、それに気づくことができた瞬間、今度は人生を再建できるありとあらゆる方法が目前に広がってゆくのです。
結局、Aさんが選んだ債務整理は任意整理でした。ただし、任意整理であっても借金そのものを減債するのではなく、借金の返済期間を大幅に延長することを彼は強く望んできました。なぜなら、月あたりの返済額が半分以下になればアルバイトを入れなくても十二分に生活がしてゆけ、心にゆとりを与えることができるためです。
さらに嬉しいことに借金をしっかりと真正面から見据えるうちに、Aさんはなぜ会社の解散以降、これまで自分が正社員になれなかったのかにも気づいたのです。その理由は「お金にばかり目が眩んで、仕事の本義を見失っていたため」だったとのことでした。こうして再びやる気を取り戻したAさんは中途入社であるため、以前よりもわずかに給与は下がったものの、今はかつての競合であった家電メーカーに入社し、躍進していると言うことです。
お金について正面から見つめると言うことにはたくさんの利点があります。これらは即お金に結びつくものもあれば、逆に心を豊かにし、人生にうるおいとゆとりをもたらしてくれるものでもあるのです。Aさんはお金を考えることで仕事を取り戻すことができました。ただ、目先のお金にのみ飛びつくのではなく、お金そのものを見つめる時間を持ってみることもときには大事なのではないかと思います。