債務整理コラム
「サイマー」の習慣
インターネットのスラングに「サイマー」と言う用語があります。債務整理に紐づけて考えた場合、ぱっと見にこの単語は債務者を揶揄していることを想起させます。しかし、よくよく調べてゆくとサイマーとは単なる債務者のことを指しているわけではないようです。サイマーとは借金を持たない側の視点から見て、遊興費に費やすための借金で多くの人々を巻き込み、迷惑をかけてはばからない特異な人々のことを指しています。
サイマーは、債務総額が多かったり、何らかの理由で多重債務に陥ってしまった債務者とは異なります。サイマーは消費者金融からの融資はもちろん、周囲のありとあらゆる人々から借金を重ねています。これは知り合いであれば誰もが保証人になってくれて当然と言う思い込みから来ているようです。また返済に関してもそもそも借金を返すつもりがないため、貸した人々がいかに口を酸っぱくしても、言い訳を重ねてのらりくらりと返済を逃れます。この「サイマー」と呼ばれる人々は他人に借金を申し込むことにまったく罪悪感を抱いておらず、周囲がどれだけ迷惑をかけられても一向に顧みません。またその借金の理由も差し迫った理由ではなく、ほとんどがギャンブルなどの遊興費です。
「サイマー」とは、このようにリテラシーが低い人のことを示すネット用語のようです。このような人が存在することは一般の生活をしている上ではあまり見かけないかもしれませんが、実際、確かに存在はしています。しかしそれでもサイマーは救いようのない存在として一概に忌避すべきでしょうか。世間ではサイマーを「近寄らせてはならない人々」と捉えています。これはある意味で正しい判断です。例えば会社の同僚や親戚などにサイマーがいた場合は大変でしょう。自分の遊興費のため、ことあるごとに借金を申し込んできて、しかも返済を催促すれば怒り出すような人々と関わりあいたいと思う人は少ないはずです。ただ、債務整理をする側から見ると「サイマー」は一種の病気に近いところがあると思わざるを得ません。
以前のコラムで述べたことがありますが、借金癖はアルコール依存症に酷似したところがあります。しかしお金と言うものは手元に置いておくだけで意味を為すものではありません。必ず用途があります。そうして「サイマー」の借金の理由をパチンコや競馬などのギャンブルに当てはめると、アルコール依存症とギャンブル依存症の関連性に妙にしっくりと来るものを感じます。アルコール依存症(アル中)は「飲んではいけない」と言う強迫観念や罪の意識から再びお酒へと逃避してしまうと言う堂々巡りを繰り返します。ギャンブル依存症に関しても、目先でギラつく電飾や当たりそうで当たらないルーレットなどを多用して射幸心を煽りに煽り、大当たりしたときの成功体験を脳裏に明確に刻んで借金へと駆り立てるのです。
街にはこのような誘惑があらゆる場所に張り巡らされています。このため「サイマー」の中には「悪い」と思いつつも、身体が勝手にパチンコ屋へと動いてしまうと言う堂々巡りの体験をしている人もいるのではないでしょうか。これは「サイマー」自身のリテラシーはもちろんと言えますが、同様に射幸心を煽り、条件付けも同様に生理的に欲望を喚起するような仕組みを作り上げたパチンコなどにも大いに罪があると言わざるを得ません。
では、このような習慣付けから脱却するにはどうすれば良いのか。
大正時代の大実業家で、日本における資本主義の父と呼ばれる渋沢栄一は著書「論語と算盤」の中で以下のように記しています。
由来習慣とは人の平生における所作が重なりて一つの固有性となるものであるから、それが自ら心にも働きにも影響を及ぼし、悪いことの習慣を多く持つものは悪人となり、良いことの習慣を多くつけている人は善人となると言ったように、ついにはその人の人格にも関係してくるものである。 (中略) 習慣は些細のことであるとして侮蔑しやすいもので、日常それがわがままに伴っているからである。されば男女となく老若となく、心を留めて良習慣を養うようにしなけれならぬのである。
同様のことを安岡正篤は、
心が変われば 態度が変わる。
態度が変われば 習慣が変わる。
習慣が変われば 人格が変わる。
人格が変われば 人生が変わる。
との有名な言葉にて括っています。
ときに市井の喧騒を離れて自らの習慣を見つめる工夫は大切です。たとえ髪一筋であっても、自らの行動を「悪いこと・いけないこと」との気持ちがあるのであれば、そこを起点に「サイマー」からの脱却はけして不可能ではないはずです。