債務整理コラム
ギャンブルと借金は親戚同士
世の中には色々な依存症があります。アルコール依存症・麻薬依存症・ギャンブル依存症……。依存症は他人からみると「だらしない」とか「自制心が足りない」などと言われがちですが、これらは精神疾患の一つであると言えます。たとえばアルコール依存症の人がいたとしましょう。この人は、ごく普通の日常生活を送ろうとしても、目が覚めるが早いか、さながら砂浜に少しずつ潮が満ちるがごとく、気づかないうちにお酒を飲みたいと言う欲求に精神を侵食されてゆきます。このため、仕事を探す合間にふと外に出てしまい、気づいたときには公園の片隅のベンチに座り、コンビニで買ったウイスキーや日本酒をラッパ飲みしていると言う具合なのです。朦朧とした意識の片隅で「ああ、またやってしまった」と後悔する気持ちを抱えながらも泥酔に浸ると言う日々を繰り返してゆくのです。
ギャンブル依存症もまたしかり。パチンコ・パチスロにはまってしまう人は哀れなものです。ジャラジャラと撒き散らされる騒音とビカビカ光る電飾とともに吐き出されるパチンコ玉のあの感覚が深く心に刻まれてしまうと、依存症の人々は、ふと気づいたときにはパチンコ店へと足を運んでしまうのです。必死に意識をして自制していても、手にするのはパチンコ・パチスロの攻略雑誌と言う具合。そうして結局はパチンコ店に足を運び、負けがこんでゆくうちに、ああ、いけないいけない、こんなところに来るべきではなかったと思いつつ、すっからかんの財布を抱えて再び店を出ることになるのです。
さて、これらの依存症は借金問題と密接に結びついていますが、その前に、そもそも依存症に陥って、気づいたときには公園でお酒を煽っていたり、パチンコ台のレバーを握っていたりするような精神状態がはたして「自分」といえるのかと言う問題があります。
少し哲学的な話題ではありますが、自分とは何かについて、このようなお話があります。ある旅人が旅の最中、死体を奪い合っている二匹の鬼に出会いました。鬼はこの死体がどちらのものかを旅人に問うたため、旅人は片方の鬼のものだと言いました。すると残った鬼は怒り狂い、旅人の腕を引きちぎってしまったのです。もう片方の鬼は腕を奪われた旅人を哀れに思い、死体の腕をちぎって旅人につけてあげました。次に鬼は死体の足は誰のものかと問いました。旅人はやはりどちらかの鬼のものだと答えると、残された鬼は怒り狂い、旅人の足をもぎ取ってしまいます。もう片方の鬼はやはり旅人を哀れんで死体の足を旅人につけてあげました。そうこうするうちに旅人の身体は次第に死体のものへと変わっていったのです。さて、どこからが旅人自身でどこからが死体なのか、それは言い切ることができるでしょうか。
同じように哲学には「世界五分前仮説」と言うテーマがあります。もし世界が五分前に生成され、同時に自分も過去の記憶をそっくりそのまま持って五分前にポンと誕生したのであれば、それを証明することができるだろうかと言う思考実験です。映画の「マトリックス」をはじめ、同じような思考実験はたくさんあります。
では、同様に「ギャンブルをやってはいけないと常々思っている私」と「ふと気づいたらパチンコ屋でレバーを握っている私」は同じ「私」と言えるのでしょうか。これらの根源には「そもそも何をもって“私”とするのか」と言う難しいテーマを孕んでいますが、少なくとも「いけないいけないと自分に言い聞かせているのに、気づいたらパチンコ屋にいた」と言う状態は、健全な生活を送っている「私」とはまるで別物です。
チンチンジャラジャラと玉が出て、電飾がビカビカ光り、どうやらあと少しで大当たりできそうだと思った時点で種銭が尽きてしまった。その気持ちを抱えてふと周囲を見回すとサラ金会社のATMが目についてしまう。ここで借金に飛びついてしまうのはまともな「私」ではありません。このようなおかしな意識のときに借金はどんどんかさんでゆく。これは非常に悪質であり、いわゆる催眠状態にあるのと何ら変わりがないのです。
実は世の中にはこのような意識にさせるものはごまんとあります。バーゲンセールのチラシしかり、今だけ◯%オフのメールしかりと言った具合です。パチンコ依存症から借金体質へと転落してしまうような悪質な仕組みではないにせよ、少し目を凝らせば社会の悪辣な仕組みはいたるところに散見されるのです。重々注意して日常を送るにこしたことはありません。しかし、もしギャンブル依存から借金地獄の罠にはまってしまったのであれば、まずは当所にご相談ください。あなたはけして悪くないのです。