債務整理コラム
多重債務者と暗黙のルール
借金の返済が厳しい人は債務整理を行います。法律に則ってお金を借りたものの、どうしても返済ができない。だから法律に則ってそれを処理する。それが債務整理。ルールに則った極めて当たり前の行為です。
しかし、世の中にはたとえどれほど小さくても自分がペナルティを食らうのはイヤだと言う人もいます。このような人の場合「今日なんとかなったのだから、きっと明日も何とかなるだろう」と言うような気持ちが心のどころかに潜んでいるようです。このため、いざ返済日になれば別のサラ金から借金をすることで返済に宛て、それを繰り返すことで急激に生活が悪化してゆく事態に陥ります。
借金はとても苦しいものです。ましてや返済できない苦しさは想像を絶するものです。これは返済のための資金のみならず、返済のために他の生活費をギリギリまで削らねばならないため、朝目が覚めてから夜眠るまでありとあらゆる生活環境が質の低下を招くことになることもその一因となっています。
たとえば一年前までは食事と言えば奥さんが作った手作り料理だった人もいることでしょう。しかし借金問題の発覚と同時に奥さんから離縁され、しばらくの間はスーパーのお惣菜や幕の内弁当で我慢をしてきた債務者もいるかもしれません。しかしそこで完済できるのであればいざしらず、返済が終わらずに、また別の会社から借入をしては借金の返済に充てる生活をしてゆくと大変です。スーパーのお惣菜はいつしか冷凍食品に、また月日が経つ内にカップ麺ばかりへと変貌してゆくと言う流れになりかねないのです。
これはあまり言われませんが、生活の質が低下してゆくと、自分を取り巻く人々も、また自分自身の気質や性格も次第に低下してゆきます。お金がないから自分は清貧であると言うのは間違いです。清貧を尊ぶと言うことはもちろん素晴らしいことですが、借金の返済ができずに止むを得ず貧しい生活を強いられることと、日々の生活をきちんと成立させつつ、倹約に勤しむことはまるで別物なのです。
人間性や環境を含め、生活が悪化してゆくと借金を返済する意識は遠のきます。また生活費を周囲の友人から拝借することも考えるかもしれません。このような流れになると債務者本人は友人だと思っていても、いつの間にか友人からは「関わりたくない人」と思われている可能性も否定できなくなってしまうのです。
こうなると後はあまり芳しいものではありません。友人からはチクチクと返済をせがまれ、しかし債務者としては返しようにも返せない。この結果、激しいいがみ合いになり、場合によっては、友人は債務者が書いた借用書をやくざのような反社会的な取立屋に売り払うかもしれません。加えて債務者本人も生活環境の改善を諦めてしまい、毎月の返済どころか、もはや返済したいと言う意識すらなくなってしまいかねません。「とりあえず一週間後の返済日に何とかなればいいや」と言うような気持ちになってしまうと、結局、最終的な金策はヤミ金業者頼みとなってしまうのです。このように借金が返せないと環境は悪化の一途を辿るのです。
借金問題のおそろしいところは返済できないことではありません。信頼を中心にした社会的なルールを破ってしまうことにあります。これは「おそろしい」ものです。ただし「悪い」と決めつけることはできません。砂漠の真ん中で赤信号が点っていたとしても、その前で青になるまで待つ人など聞いたこともないのです。
価値観が多様化されている現代です。社会的なものであれ、法律的なものであれ、ルールを破ることは「悪い」とは捉えられないかもしれません。しかし、ルールを破るとおそろしくリスクが増大します。
自動車の駐車違反をしたことで罰金を取られてしまえば、それは誰でも不機嫌になるはず。それでも、駐車違反はルールに則って罰金を払ってしまえばそれで終わりです。しかし、暴力団などを使って駐車違反のもみけしを行った場合、その後はどれほどの金額を取られるのかは暴力団の胸先三寸です。人によっては人生をめちゃくちゃにされるかもしれませんし、場合によっては殺されてしまうかもしれません。
ルールを破った向こうは文字通りの「無法地帯」なのです。債務整理においてもこれは同じです。ルールに則って債務整理をすれば、予防注射のようなチクリとした痛みだけで人生を立ち直らせることができるのです。この点だけは忘れず、たとえ借金で悩んだとしても、ルールからはけして外れないように気をつけねばなりません。