債務整理コラム

その物語は誰も耳を貸さない

債務者が借金をする理由は千差万別。学費・医療費・生活費のために借金をする人もいれば、パチンコや競馬に夢中になって借金をこさえる人もいます。キャバクラ嬢に入れ込んだり、ホストに貢いだりするために借金をする人もたくさんいます。

借金をした理由がどうであれ、それを取り立てるサラ金は非情なものです。親族の病気の治療のためにやむなく借金をしようが、はたまた踏み倒しを画策して借金をしようが、お金を借りたのであれば、必ずサラ金会社は取立に来ます。サラ金会社は返せるあてがない人にはお金を貸しません。もし返せないのであれば、問答無用で口座を差し押さえます。それすら無理であれば、すぐ信用事故扱いとしてブラックリストに債務者を載せることでしょう。

返済が少々苦しい段階であれ、多重債務の自転車操業の段階であれ、はたまた債務超過に陥った段階であれ、あらゆる債務者は、自分の置かれた状況について必ず何らかの理由をつけます。しかし、サラ金会社は債務者のどんな理由にも一切耳を貸しません。彼らのように営業上手・取立上手な人々は黙って数分は債務者の話に耳を傾ける素振りを示します。しかしある程度のところで「そうですか、ところで返済の件はどうでしょう」と一瞬にして話題を元に戻してしまうのです。

人にはそれぞれ人生のドラマがあります。そして人は誰しも自分のことだけは特別に思い、それを誰かに伝えたいと望みます。ましてや悲劇に遭遇したのであれば、ますます人と気持ちを共有したくなるはずです。債務者はその典型例。どれほど不運な目に遭遇したか、どれほど苦しい努力をしているのか、債務者は自分の生活と借金を中心に物語を作ります。しかし、それは先の述べたように「返済」という本筋をいかに迂回するか、遠ざけるかのための手段でしかありません。

もちろん人として物語を紡ぐのは大事です。豊かな感情で物語を紡ぐことは自分を自分として確立させ、過去を反省し、生きる目的を作り出します。またそれは多くの人の共感を呼び、ときに心を通わせ、ひいては文化社会を形成する一端を担います。ですが、それは借金に関してだけは通じないのです。

その理由はお金というシステムにあります。多くの人が誤解をしていますが、債務者にとってサラ金会社は敵ではありません。もちろん味方でもありません。サラ金会社は金融という業種の一つであり、単なるシステムに過ぎないのです。そしてお金の世界はたとえば「ナニワ金融道」のように人と人とが織りなす物語ではないのです。

お金の世界に情は一切存在しません。お金はお金というシステムのみで動きます。私たちはときにその恩恵に預かり、ときに腹を立てているだけです。しかしそれはまったくの無意味。1+1は2以外にないのと同じように、逆立ちをしようが涙ながらに話しようが、容赦なく自分の流れを貫き通します。これは、債務者はもちろんのこと、サラ金会社でも、政治家でも、一般市民でもみんな同じです。お金というシステムの流れに抗うことは誰にもできないのです。

おそらくこう述べると「お金はお金というシステムでのみ動くといっても、人が働き、人の集まりである社会が動くからお金がいるんじゃないか」という疑問が頭をもたげるかもしれません。それをわかりやすくするために一つのたとえをします。

シェイクスピアの作品のように素晴らしい小説があったとします。この小説は英語で書かれており、英語圏内の人は誰でも知っているとしましょう。しかしはるか未来、英語の読み方が失われ、誰もそれを解読できなくなったとしたらどうでしょう。その書籍そのものは存在しますが、誰もそこに何が書かれているかわからないのです。その間、物語は存在しないといえるでしょうか。英語が復活すれば存在するのでしょうか。

繰り返しますが、お金はお金という厳然たるシステムでのみ作動しています。しかも金融工学といわれる投資の分野で顕著なように、お金がどういう仕組みで動いているのか実はまだ誰も正確にはわからないのです。ただ、唯一いえることは情をもって返済を繰り延べしてもらっても、それはまったくの無意味であり、必ずツケが返ってくるということ。借金に勝つには情ではなく、お金そのものに自分を合わせ、冷静に、効率的に債務整理を行うことの方がずっと有益なのです。

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