依頼者からの借金体験記
青空と債務整理
1章
50歳にもなると、男は昔の女を忘れていく。次々に女を忘れていき、頭の金庫に最後まで大切に保管しているのは見返りを期待せずに十代の頃に一途に愛した女だけだ。
しかし、だいぶ前のことなのでその記憶は定かではない。17歳の夏、森高早紀と映画を見た初デートの日は妻と出会うよりも遥か昔々のことで、あの青空の日を思い出すことは地中深くに埋もれている化石を発掘し、修復するようなものだった。頭の地層に鮮明なかたちで残っている部分もあれば、記憶が欠落している部分もあった。毎日の作業ではなかったが、40代半ばから早紀が脳裏に花火のように現れる度に、私はあの日の記憶を掘り起こし、不明なところは想像のパテでつないでいった。そうやって歳月をかけて博物館にでも飾りたくなるような青春期のメモリーを私は再現していったのである。
通勤電車の吊革に手を掛けぼんやり窓を眺めている時や深夜眠りに陥る前に枕の収まりが悪く寝返りを打った時、もしくは妻がキッチンで何かを怒鳴っている時などに、早紀はしばしば現れた。私は、どんなに仕事のことを考えていても、どんなに眠たくても、どんなに妻の怒声に耳を傾けなきゃいけない時でも、早紀を頭から追い払おうとはしなかった。むしろそこへ逃げ込むように、彼女と彼女がいた時代を私は愛おしく思い起こした。思うだけでかつて彼女が自分に与えてくれたような幸福な温もりや希望を感じとることができた。
体の奥深くに潜伏していた早紀を思う恋愛のウイルスが、「漠然とした不安」に触発され、突然活動を始めたかのようだった。それは若い頃のような美しい感情の病にはならず、自省や自責といういやな塊になった。
そいつは心臓はもちろん胃袋や肺の中にまで入り込み、煙草の煙の行き場を奪った。煙草を吸っても煙が体の中に入っていかなくなり、私は1日40本のショートホープをやめた。そして、もし叶うなら、人生であと一度でいいから早紀に会いたいと心底願うようになった。
むろん恋愛の神様に願ったところで、そんな機会は永遠にやってはこないだろうが・・・